この世の果てまで、小説を持って。 私の心をどんな色にも染めてくれる小説。どんな世界でも見せてくれます。

天使と悪魔

人間ならたぶん誰でも、心の中に天使と悪魔が住んでいると思います。もちろん、ほとんどの人は天使の声の方を選んで行動しているとは思いますけどね。でも、私だって、正直なところ、今までに一度だって意地悪な気持ちになったことがない、なんて言えません。つい意地悪心が生まれてしまったことだってあると思うんです。そして、たいがいは奥深いところに沈めておくんだけど、時には言葉にしてしまったこともあると思います。そんな言葉を言ってしまった後には必ず、自分も嫌な気分になってそのことを後悔するんです。
今読んでる小説にも、主人公の心の声の描写には、そんな葛藤が何度も出てきます。自分とは考え方や意見の違う人間に対して、彼らのその行為があまりに愚かだと思い、ムクムクと湧いてくる意地悪な気持ちをそのまま差し出したくなるって書いてあるんです。その衝動わかります。主人公もそんな衝動を何度も抑えるんだけど、過去に抑えきれなくなったとの記述があります。でも、それについてはまだ謎です。だから、この先を読み進めていけばきっと、何か事件が起きそうです。彼が爆発してしまいそうな気がします。けど、本当に繊細な心理描写が見事で、普通なら誰もが表に出したくない、誰かに知られたくない奥深いところにあるものを書いていて、思わず自分自身を見透かされているような気持になってしまうんです。けど、私の中にいる悪魔は封じ込めておきたいものです。

風景は生きている

毎日、何気に通る道。何気に見ている景色。それは意識しなければ全く同じ日常です。でも、実は季節ごとに、いえ、日々何かしら変化しているんです。今日は昨日と同じではありません。先日の朝、このことをつくづく感じたんです。その朝、いつものようにワンコのお散歩のために玄関から外に出ました。まだ道行く人が少ないなか、もう駅に向かう数人とすれ違いながら池の方に歩き始めた私は、池のほとりに高くそびえている一本の木に目が留まりました。というよりも、その木を含めた目の前の風景に目が留まったと言う方が正しいです。背景となっていた空は、上の方が薄い水色で、徐々に下の方は薄桃色になっていたんです。そんなグラデーションをバックにして木は立っていました。「うわぁ」と声に出さずにはいられませんでした。これって以前、何かで見たような……写真集だったかなぁ。いや、違う。童話の挿絵……なんのお話だったんだろう。絶対に見たことがあります。けど、一枚の絵のようなその景色がそこにあることに私は初めて気づいたんです。今まで気づかなかったのか、それとも、その日に初めてあの風景が出来上がったのか。きっと、草も木も生きているし、空だって常に変化しているから、あの瞬間だけだったのかもしれません。でも、それを何で見たんだろう。一体、なんの本で。それだけは未だに思い出せていません。

インターホンが鳴ったら

休みの日にのんびりと読書をしているときに電話がかかってきたり、インターホンが鳴ったりすると、一旦本を置くことになるから腰を上げるのが億劫です。それが興味のない営業や宗教の勧誘だったりすると、「やれやれ」といった感じです。
先日もインターホンが鳴ったから出てみたら、「今日は聖書の……」と話し始めたから布教だったようです。興味がないのでと断ったんだけど、そもそもあんな風に一軒ずつ家を回っての布教って、今の時代に即してるのかなって思うけど、成果があるからやってるんですよね、きっと。
そういえば、ずいぶん前にホテルの部屋に聖書が置いてあるのを見かけたことがあります。最近は見ないけど。いや、私が気にしていないだけなのかもしれませんけど。でも、それは、悩みがある人の助けになればという意味で置いてあったんですよね。それを読んで救われたという人もいるんだと思います。聖書の中の言葉には心に響くものが沢山ありますし、内容は素晴らしいものですもの。私は家の近所のカトリックの幼稚園に通っていたから、その時にはマリア様の絵本を読んでいました。それが本を好きになるきっかけになったことは間違いありません。けど、生きて行くうえで自分の気持ちの拠りどころをどこに持つかは人それぞれです。今の私にはっきり言えることは、休みの日にはゆっくりと読書に集中させてほしいなってことなんです。

色で違う花言葉

車に乗っているときは、その日の気分でCDを聞くときとラジオを聞くときがあります。CDは自分の好きな曲が聴けます。お気に入りの曲を延々リピートしてるときもあります。そうすれば、ご機嫌で運転できますものね。でも、ラジオのイイところは、自分の意志とは関係なしに色んな曲がかかるところ。もちろん、あんまり好きじゃないものもあります。でも、今まで聴いたことがないアーティストの歌や曲を耳にすることができます。そして、それがきっかけでそのアーティストが好きになることもあるから、発見があるんです。流れてくるお喋りの内容も然りです。「へぇ、そうなんだ」って情報を得ることだってできますしね。そんなラジオなんですけど、先日、エンジンをかけたらパーソナリティの方がガーベラについてお話されていたんです。長持ちさせる秘訣などが話題になっていました。その時に、ガーベラは色によって花言葉が違うとお話されていました。だから、プレゼントするときには花言葉も考えて色選びをして贈れば素敵ですねって。花言葉といえば、以前、知人にプレゼントするときに色々調べました。本も買いましたもの。このところ、その本は全く見てなかったけど、花言葉には由来があって、そこには物語があるんです。久しぶりに誰かにお花をプレゼントしたくなっちゃいました。

言葉って本当は難しい

何気に使っている言葉だけど、実は間違って使っていた、なんてことがたまにあります。本で読んだりテレビで見たりして、「そうだったのか」なんて思うことがあるんです。それこそ、子供のときのことを思い出すと、数えきれないくらいあるから笑えます。今でもよく覚えているのが『手をたたきましょう』という童謡。最後に『ああ、おもしろい』という歌詞があるんだけど、何を思ったのか、私はかなり長い間、『ああおも白い』と理解していたんです。何かわからないけど、『ああおも』というものが『白いんだ』と。他にも童謡の中で驚いたのは、『アルプス一万尺』です。これが『子ヤギの上で』とよく間違われることは知っていたんです。本当は『小槍(こやり)』だって。けど、外国の歌だと思っていたんです。これはごく最近までそうでした。けど、このアルプスって日本アルプスだったんですよね。そして、『小槍』というのは『槍ヶ岳』の山頂付近にある岩のことを指しているんですって。驚きました。
そしたら先日、『もし』と『もしも』を混同して使っている人が多いという記事を見かけたんです。これは、何となく違うような違わないような……といった感じでした。今までは明確な使い分けをしてはいませんでした。でも、その記事によると、『もしも』は『もし』を強調する形で、さらに起こってはいけないことや悪いことを想定するときに使う言葉なんだそうです。そして『万が一』という意味も含まれるんだとか。そういえば『もしもの時には』って言ったら、いい意味ではないですものね。言葉を正しく使うことは実は難しいんです。

時には『待つ』ことの大事さ

人は『攻め』の人と『待ち』の人に分かれると思います。そして、私はといえば『攻め』の人です。仕事でもプライベートでも待つだけで自分が動けない時には、何かできることはないかとイライラしてしまいます。気は短くはないからもちろん待ちますけど、何もしないでジッとしているのが苦痛なんです。でも、自ら攻めて行く方が早く結果に繋がると思っていましたしね。でも、そうじゃないんだって思える記事を先日読んだんです。その記事にはスポーツ選手のスランプを取り上げていて、どれだけ頑張ってみても、結果が出なくて行き詰まりを感じることがあるものだと書いてありました。そんなときには、焦らずに力を蓄えるときだと思うべきなんだそうです。行き詰まりは栄光を勝ち取るための準備期間だと考えればいいんだって。いつも『攻め』の姿勢ばかりでなく、時には『待ち』の姿勢を構えることを学ばなければならないと書かれていました。そして、時間が最良の薬となって、やがて本領を発揮できる時期が訪れると。
それを読んで気づいたんです。今まで攻めることが最善の方法だと思ってきたけど、それは間違いだったんだって。時には、ジッと耐えて待つことも大事なんだとわかったんです。焦りは禁物。自然の法則に任せることも必要なんですね。ちょっと成長できた気がします。

心に響くひとこと

ステキな言葉や文章は本や雑誌の中にしかないわけじゃありません。部屋の中を見渡してみると、あちこちに何かしら見つける事ができます。たとえば、日めくりカレンダーやポエムの額、メッセージカードなどがあります。
週末に訪ねた知人の家にも日めくりカレンダーがあって、そこに書かれていた言葉があまりにも素敵で、思わずメモしたくなりました。ただ、メモるには少々長いので、いつでも見られるようにと写メを撮ったんです。それは『自分にピッタリ合った靴で歩く』というタイトルの文章でした。ピッタリの靴といっても、本当の靴選びの話ではありません。そこに書いてあったのは、どこまでも夢を実現していくことが本当の幸せだということです。興味のあることを追及して、楽しいと思うことを実行していってくださいと書いてありました。それは目上の人にも気兼ねなく、親や先生や上司など他人は踏み込んでくる資格はないんだって。そして、無我夢中になれるものを発見した時に、この世での自分の役割が見えてくるというんです。このことを、一生他人の靴を履いて歩き回るのはツライことだから、自分にぴったり合った靴を見つけてくださいと比喩してありました。そして、その日のカレンダーの文章の中で一番心に残ったのは、『自分が自分を生きて、本当に幸せであれば、周囲の人も幸せにできる』という言葉でした。とっても心が温かくなりました。

エアコン問題

子供の頃、エアコンは寝る前にタイマーをセットして、数時間経ったら消えて、朝に再びつくようにしていました。これは、夏も冬も共通です。もちろん出かけるときにはオフにします。これって当たり前のことだと思っていたのに、最近ではそれだと節電にならないと言われるようです。つけっぱなしの方がいいんだって。これってよく耳にしますけど、私は、もひとつ信じられないんです。丸め込められてるような気がするんです。だって、どう考えても消した方が電気を使わないと思えるんですもの。けど、実際には、消していて次につけた際に一気に冷やしたり暖めたりするのに必要な電気量を考えると、ずっとつけてる方が結果的には節電になるらしいんですよね。
じゃあ、ずっとつけてるとして、今度は何度に設定するのがいいのかなっていう疑問が湧いてきます。先日、私のそんな疑問に答えてくれてるような記事を見かけたんです。ただその記事は節電の観点でのものではありませんでした。実は睡眠時間とその質を考える記事だったんです。そこには年中同じ温度設定では良くないと書かれていました。年中25度前後設定という人が結構多いんだそうです。昼間はまだいいんだけど、問題なのは夜寝るときのことなんですって。特に冬場はその温度だと高すぎるらしいんです。16~19度がベストで、高くても低くても体にとってはあまり良くなくて、質の良い睡眠が期待できないんだって。でも、睡眠のことを考えても、ずっとつけてる方がいいという結論になっていました。うーん。そうですかぁ。

事業をするということ

この前、久しぶりに会った知人と居酒屋さんでお喋りしました。もう何年も会っていなかったからお互いの近況報告から始まりました。とは言っても、彼女が独立をしたと聞いていたから、まずはそのお話です。話を聞いてみたら、かなり苦戦しているようでした。そうですよね、自分で何かを始めるってすごく大変なことだと思います。もちろんお金もかかるでしょうし。彼女いわく、そりゃ、初めから上手くいくとは思ってはいなかったけど、少しずつは成果が出て、それなりにやっていけると思ってたって。でも、実際には考えが甘かったって。自分の思惑通りにはいかなかったんだって。だから、正直精神的にキツイんだって。ひとりでやってるから、どうしても気分が落ち込んでしまうって。だから、久しぶりに話したかったんだと思います。私はそんな彼女の話を聞きながら、以前、読んだ小説のことを思い出していました。小説では、主人公が親から引き継いだ会社の経営が思わぬことから悪い方に悪い方にと転がるように落ちていったんです。その中でもがき苦しみます。なんとか明るい糸口が見つからないかと右往左往するんだけど、難しい状況ばかりでした。でも、信念を持って、これがダメなら他の方法、それがダメなら、また他の方法はないかと懸命に動いていたら、味方をしてくれる人も出て来て好転していったんです。
彼女は今が踏ん張り時なんだと思うんです。でも、大事なのは固定概念を捨てて、未来を見据えることなんじゃないかな。私はどんな時も彼女を応援します。

妖怪と妖精

子供の頃、読んだ本に優しい妖怪が出て来たことをよく覚えています。子供との心のふれあいを描いたお話だったんだけど、当時は本当に存在しているものだと思っていました。まぁ、今でもいないと断言できるわけではないですけどね。もちろん、見たことはないんですけど。でも、その気配のようなものを感じたことがあるんです。幼いころ、二階の部屋に誰か住んでるって思っていて、母に話したら、一瞬で否定されてしまいましたけどね。でも、大昔から妖怪の物語は沢山ありますし、絵画だってあります。だから、いないと考える方が不自然かもって思うんです。そういえば、以前に読んだことがある『座敷童』もそうなんですよね。怖いイメージがあるけど、そうでなくて、実際には一緒に遊びたいと思ってるだけで怖くなんかないんだとか。
海外では、それが妖精にあたるのかな。森の中に住んでると言われているし、花や水を初めとして、家の中でも様々なものに妖精がいるんですよね。昔読んだ童話にも時々登場していましたもの。そうそう、以前、旅先の森林公園の中の樹齢千年と言われている木の周りに妖精の姿が一瞬見えたような気がしたことがあるんです。思わず二度見してしまいました。でも、ほんの一瞬で、はっきりと認識できたわけではないから、もちろん気のせいかもしれませんけど。
でも、物語に出て来るということは、きっとそれなりの理由があると思うんですよね。全くの空想のものが日本にも海外にもあると思いますか? だから、実在するんじゃないのかなって思うんです。世の中には不思議なことってあるものなんです、昔から。